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■ 佐賀の戦国史 ■

佐賀戦国研究会 / アートデザイン:鬼塚美津子&田中たら

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★第二回 関ヶ原の戦いを再検討する ―高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像―★北九州市小倉にて、2019.6/23開催!

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★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート②【2018.10/27】

引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその2です。 ★前回のレポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html 10/27(土)  嬉野市の入船荘を出発し、鹿島市→多良岳オレンジ街道→ 諫早湾干拓堤防道路→島原半島へ。(車で約1.5時間) 天正12年(1584)3月18日、龍造寺隆信・政家父子が率いる57,000余騎もの大軍の兵船が、須古城の南方の海岸・龍王崎より出航。 (中西豪先生の甲冑姿です。編集によって口髭を付けたり、目の表情などを通説どおりの隆信公風に加工しています。御大将出陣ノ図) 順風に乗って3月20日前後に神代(こうじろ)へ着港、軍勢も上陸、布陣します。軍議の後、3月21日には南下し、寺中城(三会城)に入城。龍造寺隆信は、21日から23日まで寺中城に駐屯します。(『隆信公御年譜』・『北肥戦誌』) ★軍議【島原半島の見取り図】 青色の城=沖田畷合戦当時、●龍造寺方であった城。赤色の城=●有馬・島津方の城です。 神代湊には、龍造寺方の武将・神代貴茂の居城(海城)、鶴亀城(神代城)がありました。 ちなみに佐賀郡の神代(くましろ)氏と島原の神代(こうじろ)氏は同祖説もありますが、ひとまず、...

4 MIN2018 NOV 19
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★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート②【2018.10/27】

★一次史料に見る、龍造寺家から鍋島直茂への御家裁判の委任と状況

主に、『佐賀藩の総合研究』藤野保 著 P.199~217を下敷きとして、考察を試みます。起請文は現代語へ簡潔訳を施し、記載しました。こうして一次史料を読み紡ぐだけでも、物語が浮かび上がります。 ー沖田畷合戦で、龍造寺隆信が戦死した翌月のこと。ー ①【起請文】★天正十二(1584)4月8日 龍造寺政家(血判) → 鍋島信生(直茂)宛 / 『直茂公譜考補 五乾』 「一、以前から御家を盛り立てて来られたのであるから、今においても親子兄弟の様に、何についても腹蔵なく申して欲しい。一、合戦中その方が窮地となれば、もちろんだが見捨てない。一、その方と我等の間に、もし誰かから讒言があっても、互いに実否を確認する事にしよう。一、我らは若輩なので、意見を請いたい。腹蔵なく承るので、どのように仰せられても、気にかける事はしない。(以下略) 民部太輔 政家(血判)」 ▼「どのように仰せられても」の表現から、主君である政家が、家臣の鍋島信生に「仰せられ」と尊敬語を使っている。 ▼以前から鍋島直茂の功績は、抜きん出ていたと見える。 ▼龍造寺政家が、血判を捺している。 ▼(7/7 修正)「我等」は「我ら(一人称・複数)」ではなく、「私(一人称...

17 MIN2018 JUL 6
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★一次史料に見る、龍造寺家から鍋島直茂への御家裁判の委任と状況
the END

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