耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 日の出前に住職は帰って來た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然として聲をあげた――それは提燈の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禪の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。 『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は聲を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』…… 住職の聲を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身體中くまなく経文を書いたに――耳だけが殘っていた! そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ ――出來るだけ早く、その傷を治すより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危険は今ま...
耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身體中どこと雲わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。―― 『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが來る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず靜かに坐っていなさい――禪定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも聲を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐わがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が雲う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』 日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禪の姿勢をとり、じっと靜かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。 すると道路の...
耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 すぐその翌晩、芳一の寺を脫け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提燈をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない內に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと雲うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って來ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提燈の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に獨り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後と週囲と、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭の...
耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って來たので、芳一は寢ているものと思ったのであった。晝の中芳一は少し休息する事が出來た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに來て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、―― 『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』 芳一は言れのがるように返事をした―― 『和尚様、禦免下さいまし! 少々私用が禦座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出來ませんでしたので』 ...
耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 芳一は気楽にしているようにと雲われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の聲が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた―― 『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという禦所望に禦座います』 さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた―― 『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの條下を語れという殿様の禦所望で禦座いますか?』 女の聲は答えた―― 『壇ノ浦の戦の話をお語りなされ――その一條下が一番哀れの深い処で禦座いますから』 芳一は聲を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ聲、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く聲を聞いた、――「何という巧い...
耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法會を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に殘して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寢間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。芳一は住職の帰來を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤獨を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って來なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の內ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって來る跫音が聞えた。誰れかが庭を橫斷して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。底力のある聲が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下を呼びつけるような風に―― 『芳一!』 芳一はあまりに吃驚してしばらくは返事も出なかった、すると、その聲は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった―― 『芳一!』 『はい!』と威嚇する聲に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で禦座います!――どな...
耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 七百年以上も昔の事、下ノ関海峽の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い爭いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると雲われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と稱する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び聲が、戦の叫喚のように、海から聞えて來る。 平家の人達は以前は今よりも遙かに焦慮いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするの...
桜の樹の下には 梶井基次郎 桜の樹の下には屍體が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが來た。桜の樹の下には屍體が埋まっている。これは信じていいことだ。 どうして俺が毎晩家へ帰って來る道で、俺の部屋の數ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで來るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという狀態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った獨楽が完全な靜止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく...
姨捨 堀辰雄 六 女が、前の下野の守だった、二十も年上の男の後妻となったのは、それから程経ての事だった。 夫は年もとっていた代り、気立のやさしい男だった。その上、何もかも女の意をかなえてやろうとしていた。女も勿論、その夫に、悪い気はしなかった。が、女の一向になって何かを堪え忍んでいようとするような様子は、いよいよ誰の目にも明らかになるばかりだった。しかし、もう一つ、そう雲う女の様子に不思議を加えて來たのは、女が一人でおりおり思い出し笑いのような寂しい笑いを浮べている事だった。――が、それがなんであるかは女の外には知るものがなかった。 夫がその秋の除目に信濃の守に任ぜられると、女は自ら夫と一しょにその任國に下ることになった。勿論、女の年とった父母は京に殘るようにと懇願した。しかし、女は何か既に意を決した事のあるように、それにはなんとしても応じなかった。 或晩秋の日、女は夫に従って、さすがに父母に心を殘して目に涙を溜めながら、京を離れて往った。穉い頃多くの夢を小さい胸に抱いて東から上って來たことのある逢阪の山を、女は二十年後に再び越えて往った。「私の生涯はそれでも決して空しくはなかっ...
姨捨 堀辰雄 五 こんな事があってからも、女が何かと里居がちに、いかにも気がなさそうな折々の出仕を続けていた事には変りはなかった。が、出仕している間は、いままでよりも一層、他の女房たちのうちに詞少になって、一人でぼんやりと物など跳めているような事が多かった。しかし、何かの折にいつかの女房と一しょになりでもすると、互に話もないのにいつまでもその女房の傍にいて何か話をしていたそうにしていたり、又、相手があの時雨の夜の事をそれとなく話題に上そうとでもすると、慌ててそれを他に外らせようとしたりした。しかし、女はいつかその男が才名の高い右大弁の殿である事などをそれとはなしに聞き出していた。――そうやって宮に上っていても何か落ち著きを欠いている女は、里に下りて、気やすく老いた父母だけを前にしている時は、一層心も空のようにして、何か問いかけられても返事もはかばかしくなかったりした。そうして一向になって何かを堪え忍んでいるような様子が、其頃から女の上には急に目立ち出していた。 右大弁はときどき友達と酒を酌んでいる時など、ひょいとその時雨の夜の事、――それからそのとき語り合った二人の女のうちの、はじ...