〜初出~『赤い地獄』(川奈まり子著 2014年9月1日・廣済堂出版)
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私は三一歳で成人向けビデオの女優になり、ひょんなことから思いがけず人気が出て、ときどきテレビ番組にも出演するようになった。
たしか二〇〇一年、三二、三の頃のことだ。
当時、深夜のバラエティ番組にタレントの北野誠さんが率いる心霊スポット探検隊のコーナーがあり、単発でそこに加わえていただくことが決まった。
北野さんをリーダーに、霊能力者やタレント数名でチームを作って、皆で怪奇現象の起こる場所へ行き、そのようすを放送するのだという。
私もテレビで面白く拝見したことがあったので、参加が決まったときはとても嬉しく、光栄に感じた。
ところが、出演が正式に決まってから一ヶ月以上たっても、撮影地を知らせてもらえなかった。
そして、どこへ行くとも教えられないまま、とうとう撮影当日になってしまった。
テレビ局の玄関前で集合することになっていた。困惑しつつ定時に行くと、そこでようやく、今夜の目的地が八王子だと聞かされた。
しかも目玉は、あの道了堂だという。
私は戸惑い、嫌な兆を感じた。
「私について詳しくリサーチなさいました? たとえば、実家の場所とか」
他の出演者に聞かれないよう、声を潜めてディレクターさんに訊ねた。
「ご実家ですか? いいえ、全然。それにしてもおかしいなぁ、どこに行くか今までご存知なかったなんて。川奈さんの事務所にちゃんとメールとファックスを送ったんですが。かなり前のことですよ? どうして届かなかったのかな」
ディレクターさんの表情は演技とは思えず、ますます悪い予感を募らせながら、私は告げた。
「私の実家、道了堂のすぐ近くなんですよ」
「えっ。偶然ですけど……本当に偶然だから……川奈さん、呼ばれたのかなあ」
「まさかぁ。嫌なこと言わないでくださいよぉ!」
笑い飛ばすふりをして、胸の底に怖気を押しこめた。
――呼ばれるなんて、ありえない。
ビデオに出演しはじめてから、滅多に実家に帰らなくなっていた。正月の挨拶にも行かなかったぐらいだ。
そのときは、二月になったばかりだった。
夕方、皆と乗り込んだロケバスが目的地に近づくにつれ、見覚えのある景色が広がった。
懐かしさが心を揺らした。
「ああ、この辺、よく知ってる。私、ここの近くの美容院でカットモデルやったんですよ、中学生の頃……」
こうして故郷に帰らせてもらえるというのは、考えてみると有り難いことかもしれないと思った。
日暮れてゆく八王子の風景を眺めるうちに、勇気が出てきた。
馴染みのある土地というのは心強い。
しばらくすると、呼んでいるなら行ってやろうというぐらいの気持ちになった。
そのうちに、今回一緒に出演する霊能者のうちの一人で、ふだんは神主をしているというY先生が、私に話しかけてきた。
「川奈さん、さっきから気になってたんですが、あなた、猫が憑いてる」
バスの車中だった。Y先生は窓に映る私の顔を見ていたのだと言った。
「最近まで猫を飼っていらしたね? 黒っぽいトラ猫で、雌、変わった名前……カタカナで四文字……ジ……タ……」
そこまで聞けば充分だった。
「ジンタンです。黒ドラで雌猫でした。二年前に死にました。どうしてわかるんですか?」
占う相手のことを徹底的に調べあげて、個人的なことを提示して信用させる、インチキな占いの手口を、ホットリーディングという。
それかもしれないと咄嗟に疑ったが、猫の名前は前夫しか知らないはず。別れた夫が誰かに話すとは思えない。彼は、世間体の悪い媒体で顔が売れた今の私とは、死んでも関わり合いたくないと思っているに決まっていた。
不思議がる私の顔の前に、Y先生は手をかざした。
「あなたの顔に、猫の顔が二重写しになって視えるんです。悪い霊ではない。あなたのことが大好きで、離れがたいだけです。いずれ、自然に逝くでしょう」
私は、小さな骨壷からこぼれた灰を思い出した――ジンタンの遺灰を。
女優になることが決まり、私は離婚して引っ越した。
その際、他の荷物と一緒に、愛猫のお骨を納めた骨壷を、宅配便で引っ越し先に送ってしまったのだった。
精神的にも時間的にも、まったく余裕の無い時期だったが、それにしても乱暴な仕儀だった。
もちろん、骨壷には厳重に封をした。テープで目張りし、ポリエチレンのラップとパラフィン紙で硬く包んだ上、紐でがんじがらめにした。さらにそれを紫色の風呂敷で包んだ。
転居先に宅配便が届き、漏れるはずのない骨灰が魔法のように零れ出て、風呂敷に散っているのを見たときの、驚きと後悔は忘れられない。
思いがけず人生が転変して、逃げるように住処を変えることにもなったが、それは私の勝手な事情だ。
猫は家につくという。死んでも、暮らしていた土地を離れたくなかったのかもしれない。
幾重もの封を突きぬけて骨灰を散らすことで、愛猫は私に抗議をしたのだろうか。
可哀そうなことをしたと思っていたが、まだ私を慕ってくれてるのだとしたら嬉しいことだ。
好きなだけ取り憑いてくれていい。
「高尾山に動物霊苑があるんです。一昨年、そこのお墓にお骨を納めて、お経をあげてもらったんですが」
「成仏してません。でも、それは動物霊には、よくあることです。それよりも……」
Y先生はここでいったん話を切り、周囲の人たちのようすを窺った。
ここから話すことは、あまり人に聞かれたくないらしい。
私はY先生に耳を近寄せた。すると、先生は私の耳もとに口を寄せて、囁き声で話してくれた。
「道了堂の方が心配だ。あなたは行かない方がいい。完全に、呼ばれていますよ」
「ディレクターさんにもそう言われましたけど、ただの偶然でしょう」
「偶然ではない。あなたの猫ちゃんも心配している。だから余計に現世に顕れてきているんですよ。猫なりに、あなたを護ろうとして」
「まさか」
私は本気にしなかった。
愛猫が私に憑いているのはいいとして、私を護ろうとしているというのは、猫の特性としてありえないからだ。
猫は気ままなエゴイストだ。犬じゃあるまいし、飼い主を護ろうとするわけがない。
Y先生は、話を面白くしようとして、ボロが出たのだ。
私はひそかにそう思った。
やっぱりインチキなのだろう。でも、テレビのバラエティなのだから、面白ければそれでいい……。
一瞬とはいえ、ずいぶん失礼なことを考えたものだ。今にしてみると、Y先生には本物の霊感があったように思う。田中くんについて言いあてたのは、このすぐ後のことだ。
先生の警告に耳を傾けていたら、あんな目に遭わずに済んだのかもしれない。
そうこうするうち、ロケバスは道了堂の近くへ着いた。
子どもの頃は、うちの前の山の斜面を登って行った。灌木の茂みを掻き分けると、山の尾根を通る絹の道に出られる。そこから道了堂までは一分とかからなかった。
しかし、バスは、うちの方へは行かず、山の裏側で停まった。
降りると、すぐそばに長い階段があった。山の急傾斜を這うように、上へ上へと伸びている。
この階段のことは昔から知っていた。こちらが正規のルートなのだ。階段を上って絹の道に出て、そこからしばらく歩くことになるはずだ。
ハイヒールの編み上げブーツを見下ろして私は溜息をついた。この靴で歩くのはしんどいだろうし、きっとヒールが傷んでしまう。道了堂へ行くと知っていたら、もっと歩きやすい靴を履いてきたのに。
もっとも、子どもの頃のように藪を掻き分けて山を登るのに比べたら、はるかに楽な道には違いない。道了堂の一帯は近年、《大塚山公園》としてすっかり整備されて、絹の道も平らに均されて遊歩道になっているという話だ。何年か前に、母からそう聞いている。
昔は土のでこぼこ道だったものだが。
スタッフと出演者、合わせて一〇人以上が連なって、長い階段を上りはじめた。
――と、いくらも行かないないうちに、私たちの左右の藪が激しく騒いだ。
「何?」「すぐそこに、何かいる」「動物?」
何かの群れが、階段を左右から挟み込んで、続々と駆けあがりはじめていた。
階段の両脇は、芒(すすき)に蔓(つた)がからみつき、ところどころ灌木が黒い背中をまるめて蹲った斜面だ。そこを、大型の獣が疾駆しているような――野犬の群れ?
しかし野犬は、二〇年も前に駆除されて、この山からはいなくなったはず。
草木が揺れ、激しい葉擦れが暗闇に響き渡っている。
「おい、撮っとけ撮っとけ!」
前方の暗がりから声が飛び、照明係が棹を振り、カメラクルーが慌てて藪にレンズを向ける。
――途端にあたりが闇に包まれた。
「すみませぇんっ!」
照明さんが悲鳴のような声で叫ぶのが聞こえた。
「おいおい、勘弁してくれよ」
「すみません……今すぐ……」
前方で小さな明かりが灯った。明かりの主が自分の顔を照らしてみせた。
北野誠さんだった。
「皆、動かないで。階段を踏み外すと危ないから。もっと懐中電灯! 持ってるやつは点けて。それから、照明、すぐバルブ換えて」
その間にも、手を伸ばせば届くほど近い、すぐそこで藪が――山が騒いでいた。
私が子どもの頃、このあたりに棲みついていた犬たちは猛々しく、しかも賢く、危険な存在だった。
うちの庭で捕らえられた最後の一頭を思い浮かべて、私は怯えた。
あんなものに襲いかかられたら……。
いや、そんなわけがない。
恐怖を打ち消すそばから、誰かが言った。
「犬じゃないですか? 野犬とか……」「今どき、そんなもんおるか」「じゃあ、狸かなあ」
懐中電灯で藪を照らしても、揺れ騒いでいるだけで、奥にいるものの姿は見えなかった。
結局、その正体を突き止めることは諦めて、私たちは再び階段を上りだした。
階段はだらだらと長く、不健康な生活を送っている大人ばかりの集団は、踊り場に辿りつくと一斉に荒い息を吐いた。
吐息はたちまち白く凍った。二月の八王子は冷える。都内の最低気温を記録するのは毎冬のことだ。
そのとき、私はあることに気づいた。
「……あっ」
「川奈さん、どうした?」
振り向いた北野さんに、自分の足もとを指し示した。
「ブーツの靴紐が、ほどけてました。結び直しますから、ちょっと待ってくださいませんか」
「ほどけるって」と北野さんは顔を引き攣らせた。
「編み上げブーツやん。そういうのって、紐は飾りで、チャック付いてるんちゃうの……って、うわっ、上から下までほどけてる!」
そのとおり、紐は飾りで、脱ぎ履きには横についたジッパーを使うので、普段は解く必要がない。だから硬く結び目を作ってあったのだが、結び目どころか、下の一対の穴のところまで、綺麗に紐が穴から抜けていた。
「こりゃ、あれやな……。これ以上、行くなっちゅう意味や」
「行きますよ。私」
即座に私は応えたが、Y先生がスッと隣に並んで低く囁きかけてきた。
「無理を、しないほうがいい。僕は、あなたはバスに戻ったほうがいいと思う。道了堂で何かありましたね?」
――あった。でも、今、簡単に話せるようなことではない。
「あとでお話します」
それから道了堂に着くまでの間に、Y先生ではない、別の霊能者が人魂と怪しい白い影を見たと言ったけれど、そういうものは、私には見えなかった。
――女の子と男の子。
昔、道了堂で逢ったあの子たちは、人間そのものに見えた。
私は、人魂や、白くぼんやりした影などは、見たことがない。
火災で大勢焼け死んだ元老人ホームでロケがあったとき、そこで遭った老人は、どこからどこまで当たり前のお爺さんだった。
ラクダ色のカーディガンを羽織り、猫を抱いて、ぼんやりと佇んでいた。部外者立ち入り禁止の撮影現場に、そんな老人がいるはずはなかった。挨拶しても応えず、虚空に目を据えているようすも奇妙だった。しかし、それ以外は、不思議なところのない姿だった。
車の運転中に踏切で見た少年は、緑色の野球帽をかぶって半ズボンを穿き、日焼けした頬を風になぶられていた。
踏切の百メートル手前にも、まったく同じ姿の少年が立っていたのでなければ、怖くもなんともない、普通の小学生だった。
田中くんは両親と一緒に、もしかしたら、まだあの家に棲んでいる。
野犬の群れは、魂になって尚も山を駆けているかもしれない。
――想いが、その場に留まり、凝るのだ。
「……なさん。川奈さん!」
「えっ?」
Y先生に揺り起こされて、目が覚めた。
あたりを見回し、お堂の土台の跡にうずくまっていたことがわかった。
子どもの頃、私が遊んだ堂宇は影も形もなくなっていた。私は、石造りの基礎だけが四角く残っている、その真ん中に膝をついて体を縮めていたのだった。両肘も地面についている。
こんな姿勢でどれほどいたのか。尋常なようすではなかっただろう。
「こっちへいらっしゃい」
Y先生に手を引かれて立ち上がる。
いつ、道了堂の境内に入ったのかさえ記憶になかった。お堂の階段を登ったあたりから憶えていない。
階段の上から私たちを見下ろしていた二人の子どものイメージが、頭の奥でまたたいた。
つい今しがた、再びあの子たちに遭ったような気がした。
Y先生がお堂の跡を指差し、次いで、その指をすっと上げた。
真っ直ぐに伸びた人差し指の先が、遠く彼方を示している。
「この方角に霊道がある。お堂が無くなったため、浄化されることなく、霊がここにわだかまっています。川奈さんのお知り合いも、今ここに来ているようですよ」
「それは、もしかして、たな……」
「しっ。その子の名前を口にしないほうがいい。男の子ですよね?」
「ええ。でも、仲良しだったというわけではないんです。ほとんど口をきいたこともなくて」
「しかし、あなたは彼を忘れたことがありませんね?」
「はい。それから、私、ここで子どもの頃に……」
私はY先生と、いつの間にかそばに来ていた北野さんに、例の想い出を打ち明けた。
「そんなことがあったんか。さっき、おかしなってる川奈さんを撮ったポラな、真っ赤に感光したみたいになっとった。怖かったら見せへんけど」
「大丈夫です。見せてください」
「ほら、これ」
――しゃがみこむ私を、赤い光の輪が囲んでいた。息を呑んでそのポラロイドを見つめていると、北野さんが急に背後を振り返った。
「なんや、今、こっちで足音が。おーい、皆、ちょっとジッとして!」
境内にいた全員が動きを止めた。
すると、聞こえてきた。
ザリッザリッザリッ……。
何者かが、境内の砂利を踏み、私たちの周りに円を描くようにして歩いている。
包囲されているようだ。しかも、輪が縮まってゆく。
「これはマズイわ。退散しよう!」
全員、大急ぎで逃げ出した。
山を下り、バスに乗り込む前に、皆、Y先生に塩をかけて清めてもらった。
このお清めの塩に効果が無かったのは残念なことだった。そこにいたこの世ならぬ存在の力が強すぎたせいかもしれないが。
――麻布十番(あざぶじゅうばん)の自宅マンションに帰宅したときは、午前二時を過ぎていた。
その晩に限り、同棲していた恋人がまだ帰ってきていなかった。
彼は監督で、前日から泊まりがけの撮影中だった。帰るのは今日の夕方になるはずだ。
玄関でブーツを脱いでいると、誰もいないはずの部屋の奥から、柔らかな衣擦れの音が聞こえてきた。
「帰ってるの?」
返事はなかった。
首を傾げながらリビングに入る。と、今度は背後でキャスターつきの椅子が動いた。ゴロゴロゴロ……とキャスターが音を立てて床を転がり、椅子は、部屋を横切って壁に当たる寸前で止まった。
次には、台所の棚の扉がゆっくりと開いた。流しの上に、造りつけの棚がある。その三枚の扉が、左端から順に、ゆっくり開いてゆく。
――私は、椅子を元の位置に戻し、棚の扉を閉めた。
扉を全て閉めた途端、足もとから寒気が這い上がり、全身の肌が粟立った。
急いで部屋という部屋の明かりを全部点けた。エアコンで暖房を入れ、冷蔵庫からビールの缶を取り出す。飲みながら浴室へ行き、勢いよくシャワーを出した。
空になった缶を捨てて、熱いシャワーを浴びた。浴室の鏡を見るのは恐ろしかったが、何もおかしなものは映らなかった。
――疲れてるせいだ。さっきのは、気のせいに違いない。錯覚か幻覚か。いずれにしても現実ではない。
寝間着を着て、また新しく缶ビールを開けた。
再び、椅子が動いた。
一メートルほど動いて、部屋の真ん中で止まった。
私は震える指でマネージャーに電話した。
「撮影から帰ってから、ヘンなのよ。椅子が動いたり……」
話しているそばから、仕事机の電気スタンドがカタカタと揺れはじめて、私は悲鳴をあげた。
机の上に置いてあったメモ用紙やプリントが何枚か、蝶のようにフワリフワリと宙を舞った。
マネージャーは嫌なことを言った。
「連れてきたかな。彼は、なんて言ってる?」
恋人と同棲していることは事務所公認だった。
「泊まりがけで撮影中」
「よりによって……。Y先生に連絡が取れたら、アドバイスを貰ってみよう。出来れば、ねえさんは寝てて。電話、鳴らしちゃうかもしれないけど」
「気にしないで。なるべく早く電話ちょうだい」
眠れるわけがない。もうすぐ三時だ。夜明けが待ち遠しかった。
CDをかけ、ソファの隅で膝を抱えた――と、見えない手に押されたかのように、プレーヤーの停止ボタンがガタンと下がり、音楽が止まった。
「もう、何なのよ!」
誰かが返事をしそうな気がしている自分が、怖い。
おっかなびっくりトイレに行き、台所でまた缶ビールを開けた。三本目だ。
背後で椅子たちが騒がしく動いている。
このままでは本当に気が変になる、もう限界だと思いはじめた頃、携帯電話が鳴った。
「ねえさん? まだ起きてた? 今、マンションの下にいるんだけど」
「上がってきて」
マネージャーは赤坂のテレビ局に立ち寄り、まだそこにいたY先生からお清めの塩を貰ってきていた。玄関で私に掛けて、形だけ、祓う。
「Y先生が、これで駄目なら相談に来るようにって。お祓いした方がいいってさ」
マネージャーは私の後ろを透かし見るようにして、怖そうに肩をすぼめた。
「何かいるような感じがする。ホテルをとろうか?」
「もうすぐ朝だから、いい」
「大丈夫かな。顔色が悪いよ」
「ヘンね。さっきからずっとビール飲んでるのに、全然、酔わないのよ」
「そういうときは飲まないほうがいい。明日も撮影だよ?」
「わかってる。もうやめる。ベッドで横になるから、帰って」
マネージャーを帰らせて、明かりを点けたまま、ベッドに潜り込んだ。
頭から蒲団を被ったとたん、バチッと天井の方で音がして、顔を出すと電気が消えていた。
思わず、ため息が漏れた。
気がつけば、疲労感が凄まじかった。身体がマットレスにどこまでも沈んでいきそうな気がする。投げやりな気持ちで目を閉じると、何者かが壁を撫でさすりはじめた。
――乾いた掌で、寝室の壁紙を擦っている。
だんだんベッドに近づいてくる。ベッドは一方の壁際に寄せてあるのだ。
それは、とうとう私の頭の真横まで来た。
蒲団の中で身体を縮め、両手で耳を塞いだ、そのとき、澄んだ鈴の音が強く鳴り響いた。
愛猫の鈴の音だった。
首輪の鈴を鳴らして、猫が駆けてくる。家具伝いにジャンプしてカーテンレールに飛び乗った――私の頭の真上だ。
壁を擦る音が鎮まった。
静かになると、猫はベッドに飛び降りてきた。蒲団に潜り込んでくる。
この温もり。柔らかな毛並み。日向の匂いが染みついた、小さな頭。
――これは夢だ。なぜってジンタンは二年も前に死んだのだから。
死んだはずの猫を抱きながら、私はいつしか眠ってしまった。
それからも時折、猫の気配を感じることがあったが、やがて間遠になった。
ことに、子どもを産んでからは、とんとない。
それでも、どうしても、あの子が高尾の動物霊苑で大人しく眠っているようには思えない。あいかわらず、私のそばにいるような気もする。
そうであって欲しいという、これは私の願望でもあるのだが。
Y先生にはその後、一度も会っていない。
マネージャーは、貰ってきた清めの塩が効かなかったので、先生を訪ねてお祓いしてもらうように私に勧めたが、私はその必要はもうないと判断したのだ。
なぜかというと、私には強力な守護者がついていることがわかったから。
愛猫の幽霊ではない。実は、あの子が祓ってくれたかに思えた何者かは、まだ消え去ってはいなかった。
それは、その日の日没と共に再び騒ぎはじめた。
夕方の六時を過ぎた頃、椅子が動いた。それを合図に、性懲りもなくまた何かが壁を擦りだしたのだ。
私は心細くてたまらず、愛猫の名を呼んでみた。が、やっぱり猫は死んでも自由すぎる生き物なのか、今度は現れてくれなかった。
そこで外へ逃げ出すことも考えたが、この騒ぐ何者かが夜道を追いかけてきたら、それはいっそう恐ろしいことに思われた。
どうにもならず蒲団を被って震えているところへ、恋人が帰ってきた。
その途端、部屋中の騒ぎがぴたりと止んだ。
――私は、あったことをすべて彼に話した。
彼は信じてくれた。このとき初めて知ったのだが、彼の父方の祖母は霊能力者で、子どもの頃の数年間、彼はその祖母と二人で暮らしていたそうなのだ。
そして当時、色々と不思議な出来事を見聞きしていたため、私の体験を疑わなかったのだった。
とはいえ、彼自身は幽霊めいたものをまるで感じない性質だという。
霊能力者だった彼の祖母によれば、彼は多くの強い力で護られているため、悪いものを一切よせつけないのだとか。そのうえ今では、彼の勘によると「ばあちゃんの霊」も彼を護る者たちに加わっているそうだ。
実際、道了堂から私が持ち帰った何かは、それから今日までなりをひそめている。また、たしかに彼がそばにいるときは、理屈で説明できないような奇妙な目には滅多に遭わないということも、おいおい判ってきた。
「俺といれば安心だ」
胸を張ってそう言った彼と、私はその後結婚した。
離婚でもしないかぎり、お祓いには行かなくても大丈夫だろうと思っている。