〜初出~『赤い地獄』(川奈まり子著 2014年9月1日・廣済堂出版)
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外薗先生と、先生と共通の担当編集者の佐藤さんと三人で会食した次の日から、私はさっそく怪談めいた小説を書きはじめた。
それは、恨みを遺して死んだ若い女たちの集合霊が化け物になって人を襲う話で、基本的にはフィクションだが、私が現実に体験したことも様々な形で中に織り込んだ。
たとえば私は、以前住んでいた麻布十番のマンションで、男性の飛び降り自殺を見てしまったことがあった。そして、それから暫くの間、飛び降りた人がうちを訪ねてくるという悪夢に毎晩うなされた。その悪夢を作中に招き寄せた。
また、件の化け物は、私が関わり合いになり亡くなった若い女性たちのイメージを統合したものだった。
――私は、どういうわけか、知っている女性が殺されたり、自殺したり、非常に若くして病死してしまうことが、普通よりも多いようなのだ。
何度か共演したことのある某女優さんは殺人事件の犠牲者となり、新聞やテレビのニュース番組で報じられた。
寝ている間に窒息死した女優さんや自殺した知人女性もいる。
刑事事件を起こし失踪したあの風俗嬢は、おそらくもう生きているまい。
さらに、この小説の構想を練っている最中にも、三年ほど前に映画で共演した女性がストーカー殺人の犠牲者となった。
私の裡では、皆、今も、美と若さを振り撒いているというのに、本当は死んでしまっているだなんて、どうやって自分を納得させればいいのかわからない。
――間違いなく、彼女たちと私との間を隔てる膜は、ごく薄い。
実を言うと、そんなことを想ううちに、頭の中で徐々に一個のお話が形を成してきたのだった。
書いている最中に、ちょっと嫌なことが立て続けに起きた。
まず、書き出したばかりの頃、丸の内で平清盛公の塚に私が供えた清酒が盗まれた。
お供えをしてから佐藤さんと落ち合って用事を済ませ、それから再び、今度は佐藤さんを伴って戻ってみたら、私が置いた所にそれが無かったのだ。
あたりを探しても見つからず、ホームレスか誰かが持ち帰って飲んでしまったのかもしれないと思ったが、私は、さあこれからだ、と、意気込んでいた気持ちにケチをつけられたように感じて少し気落ちした。
次いで、パソコンが壊れて、書き出しから五〇枚ほどのデータが一気に消えた。
USBメモリーもデスクトップに保存しておいたデータもすべて読み込めなくなり、今度は夜も眠れなくなるほど落ち込んでしまった。二、三日は原稿を書く気が起こらず、半病人のようになり、昼から寝てばかりいた。
佐藤さんによると、外薗先生も怪談の原稿を書いていると頻繁にデータが飛んだりパソコンが故障したりするそうだ。
だから、バックアップを幾つも取るほか、書けたそばから佐藤さんに原稿を送るなどして用心なさっているという。
……暗に、「早く原稿を書いて寄越しなさい」と言われたような気もした。
そこで、私は再び書きはじめた。
再開してみれば、サボっていたのが馬鹿みたいに感じられるほど、すぐに筆が乗ってきて、順調に書き進めることが出来た。
仕事に没頭しはじめると、夜、床につくたびに、亡くなった知り合いの女性たちのことを想い起こすようになった。
書いている小説の内容が内容なだけに、無理からぬことだった。
――なぜ、彼女たちは死んだのか。
生前の彼女たちは、皆、私の前で明日のことを語っていた。
「いつか舞台女優になりたいの」「今付き合ってる彼と結婚したい」「次の仕事が片付いたら旅行に行くつもり」「マンション買いたくて貯金してるのよ」
その、今日と地続きだったはずの未来は、突然断ち切られた。
もしかすると、私たちは絶えず黄泉の国から手招きされていて、フッと気を抜くと、たちまち腕を掴まれて連れていかれてしまうのかもしれない。
飛び降り自殺した男性だって、そうだ。
あのとき、私の目の前であっさりと命の火が消えた。
私も飛び降りたら、同じようにあっけなく死ぬのだろう。
そんなことばかり考えていたせいか、熱が出た。
仕事がはかどらないので早い時間からベッドに横になり、眠ってしまった。
――初めは、赤黒い靄が天井でどよめいているように見えた。
寝汗が冷えて目が覚めたときのことだ。仰向けになり、薄暗い天井を見上げたら、人のそれよりも二回りぐらい大きい手のようなものが一面に生え、一斉に指を蠢かせていた。野球のグローブほどの大きさの、爪のない赤い手だった。
恐ろしかった。金縛りでもないのに、悲鳴もあげられなかった。
少しでも身じろぎしたら、途端に、あの赤い指の群れが一斉に襲いかかってきそうに思われた。
天井が少しずつ下ってきたように感じるのは気のせいか。
じわり、と、指が迫ってきているような。
次第に蠢き方が速くなってきたような。
指には、赤い肌地にどす黒い斑がある。
それに全身を包まれたところを想像すると、歯の根が合わなくなった。
夜明けはまだか。
枕のすぐ左横に、目覚まし時計を置いている。頭を動かさず、横目でそちらを窺おうとして……。
気づいてしまった。
ベッドの左横にも、何かいる。
黒い人型をしたものが、膝を抱えてうずくまっている。
――子どもだ。
七、八歳ぐらいの子どものようだ。小さな体躯、丸い頭、なだらかな肩の線。
ただし、黒い。
真っ黒な影のようで、目鼻もわからない。
なのに、私のことを注視しているのが、感じ取れた。
――天井を埋めつくす赤い指は、まだ蠢いている。
――黒い子どもが、左横に。
毛穴から氷が湧いたかというほど冷たい汗が、額からこめかみを伝って流れた。
これまで、私が動かないことで、危うい均衡を保ってきたことは察せられた。
逃げれば、一斉に、来る。
しかし、もう堪え切れなかった。
私は思い切って蒲団を引き上げ、頭から被って目を瞑った。
何時間、そうしていただろう。
蒲団の中で息を殺しているうちに、雀の声が聞こえてきた。
おそるおそる目を開くと、蒲団越しにも明るさが感じられた。
蒲団から顔を出すと、いつもどおりの白い天井がほのかに朝陽に照り映え、左横では、目覚まし時計が静かに時を刻んでいた。
六時だ、と、思った途端に、強烈な睡魔に見舞われた。
やがて小説を書き終えた。
赤い手指を見たのはそのときだけで、黒い子どもの影も現れない。
夢だったのかもしれないとも思うが、喫茶店などに行くと、時折お冷を一つ余分に出されるので、この世ならぬものをすべて否定する気にはなれずにいる。
外薗先生からは、最近、神田明神の《IT情報安全祈願》の御守りを頂いた。これをパソコンに貼っておくと良いらしい。
お礼にクッキーの缶をお届けしたら、そのときたまたま先生は奥さまと「クッキーが食べたいね」と話していらしたそうで、私には超能力があるのではないかと半ば冗談で仰った。
もちろん、それはただの偶然だ――と、今また、誰もいない向かいの席にウェイトレスが澄まして置いていったお冷を見ながら、これを書いている。
私の現世を覆う膜は、どうやらかなり擦り切れているようだ。 (了)
――二〇一四年夏 初稿擱筆/二〇二〇年夏 改稿
作家。
『一〇八怪談 鬼姫』『実話奇譚 怨色』『少女奇譚』『少年奇譚』『でる場所』『一〇八怪談 夜叉』『実話奇譚 奈落』『実話奇譚 夜葬』『実話奇譚 呪情』『実話怪談 穢死』『迷家奇譚』『出没地帯』『赤い地獄』など、怪談の著書多数。
日本推理作家協会会員。
川奈まり子
相樂真太郎
さやさや花
夏目愛海
八王子市郷土資料館
指田徳司 様
川奈まり子さんが幼少期から青春時代を過ごした八王子。
今ではその頃にはなかった巨大なバイパスが野山を切り開き、当時の面影はすっかり失われ、取り残されたような昔の新興住宅が肩を寄せ合うようにしてひっそりとたたずんでいます。
それでも、「八王子」の作品の舞台になった「道了堂」とその周辺、そして八王子から横浜までの生糸の運搬のために使われた「絹の道」沿いには、いまだに手つかずの豊かな自然が残されています。
残念ながら、道了堂の堂宇は昭和58年に不審火が原因で焼失し、今では跡形もなく、苔むした礎石だけが当時の様子を伝えるだけになっています。
道了堂跡は、川奈まり子さんの恐怖体験の地というだけでなく、稲川淳二さんの名作怪談「首なし地蔵」の舞台としても有名です。
道了堂がこのようないわくつきの場所と言われるようになったのは、この地で起こった二つの陰惨な事件に端を発しています。
ひとつの事件は、道了堂の堂守をしていた「浅井とし」という老婆の殺害事件。
浅井としはひとりで道了堂の御堂を守りながら、人々から依頼され怪しげな呪術や祈祷を行っていたそうです。昭和38年9月10日、当時81歳になっていた浅井としは、押し入ってきた強盗に胸と喉を刺され、無残にも命を落としてしまいます。
(この殺害現場は道了堂ではなく、当時彼女が生計を立てていた、住居を兼ねた駄菓子屋だったそうです)
もうひとつの事件は、浅井としの殺害事件から十年後、昭和48年に起きます。
立教大学の教授だった男が教え子の女子大生の命を奪い、道了堂の近くに遺棄するという事件が起きました。教授と女子大生は恋愛関係にあったそうで、痴情のもつれからの犯行といわれています。教授は事件が明るみに出る前に、家族を殺したうえで自殺を遂げ、一家全員を巻き込む形で無理心中をとげました。犯人である教授が死亡したため、遺体の発見が遅れ、女子大生はミイラ化した無残な状態で発見されました。
(実際に遺体が遺棄されていたのは、道了堂から2キロほど離れた場所だったようです)
その後「幽霊を見た」とか「怪奇現象が起こった」という噂が人口に膾炙され、道了堂は心霊スポットとして有名になっていきます。
実際に「八王子」の作中でも、川奈まり子さんといっしょに北野誠さんたちが心霊ロケで現地を訪れています。
今回オトキジで川奈まり子さんの「八王子」を改訂版という形で掲載させていただくにあたり、himalaya編集部は現地に赴き、実際に舞台となった場所で撮影と現地の環境音の録音を行ってきました。
現在はバイパスを行き交う自動車の轟音が周辺に響いており、当時の様子を想像するのは難しくなってきてはいますが、それでも道了堂跡とその周辺には得も言われぬ陰鬱とした重苦しい空気が漂っています。
みなさんも道了堂跡を訪れ、川奈まり子さんが遭遇した「女の子と男の子」や「田中くん」の存在に思いを馳せてみてはいかがでしょう。
<文・himalaya編集部>
絹の道や製糸・養蚕に関する資料が展示されています。
住所:東京都八王子市鑓水989-2
電話:042-676-4064
開館時間:3月から10月/午前9時から午後5時まで
11月から2月/午前9時から午後4時30分まで
休館日:月曜日(祝日と重なる場合は翌火曜日)
年末年始(12月29日から1月3日まで)
入館料:無料
交通案内:公共交通機関の場合
JR・京王線橋本駅より多摩美大経由「南大沢駅」行
京王線南大沢駅より多摩美大経由「橋本駅」行
ともにバス停「絹の道入口」下車、徒歩約10分
車の場合
横浜方面より16号交差点「御殿峠」を右折、道なりに約5分
埼玉方面より16号交差点「御殿峠」を左折、道なりに約5分
駐車場あり
絹の道資料館の前を通っています。
絹の道資料館から絹の道を歩いて15分くらいです。