【虫と傷跡】

川奈まり子
「オトキジ」怪談連載October 01, 2020

作・川奈まり子

〜初出~『第四夜 虫と傷跡』(川奈まり子の実話系怪談コラム 2014年12月3日・ニュースサイトしらべぇ)


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二〇年ほど前になるが、いわゆるセクシー女優としてデビューして一年ほど経った頃のことだ。企画系ながら主役を務めた作品がヒットして、主演作品が多く撮られるようになってきた当時で、たしか五月ぐらいだったと思う。

 その日、私は都内のハウススタジオで、助演してくれる女優さんに引き合わされた。

 たいへんな美貌の持ち主だった。綺麗な女がいくらでもいる業界だが、特に抜きんでて整った顔とバレリーナのような長い頸に、まず、目が行った。

 造形が美しい人だ。私がアヒルなら、この人は白鳥だ。彼女をさしおいて主役を演じるのは恥ずかしいと思った。

 しかし間もなく、着替えのときに――今は知らないが、その頃のこの手の女優同士は羞恥心が薄く、着替えのときなど自分の裸を隠さない場合が多かった――彼女のお腹に大きな十文字の傷痕があることに気づいた。

 蒼白い肌の上で、鳩尾から恥骨の上まで縦に走る縫い目と、臍の下を横に走る縫い目とがクロスしていたのだ。十字架を逆さまにしたような形だが、縫い目はところどころ引き攣れ、白く凹んだところもあれば、赤黒く盛り上がったところもあった。

 とにかく、見たこともないほど無残な傷痕で、いったいどういう種類の外科手術を受けたのだろうと想像を掻きたてられてしまった。

……いや、正直なことを申せば、今どきの病院でまともな医師がやったとは思えず、猟奇的な犯罪者の狼藉の跡のような気がしてならなかった。

 当然、気の毒にも感じた。しかし、それと同時に、どうしてこの人が裸を人目に晒す職業に就いているのか、と、不思議だった。

 彼女自身も辛いだろうし……。こういう女性を脱ぐ女優として使いたがる人がいるというのも、意外などという言葉では済まされないことだと……私は黙って考え込んでしまった。絶世の美女と惨たらしい傷という取り合わせに性的に惹かれる層が存在するらしいことは知っていたけれど、実際に目の当たりにすると、そのような趣向の闇の深さには戸惑うばかりだった。

 だから、彼女が羽織っていたガウンの前を開いて、「こんなになってるんですけど、いいですか?」と、至極あっけらかんとした口調で監督に訊ねたときは、少なくとも彼女自身は私にも理解可能な常識のある人なのだと思い、少しホッとしたのである。


 監督は、あっけに取られていた。

 比較的ベテランの、三五、六になる男の監督で、物に動じない性質と見えたが、彼女の「逆さ十字」には傍目にも気の毒なほどたじろぎ、次いで、嫌悪感をあらわにして「困ったな」と呟いた。

 すると、彼女は妙に陽気な、明るいがゆえに場違いな笑顔になった。

「ですよねぇ。困りますよね。おまけに、ここも、こんなふうになってるんです」

 そう言って、自分の脚を指差したので、少し離れた場所にいた私も思わず釣り込まれて見てしまった。

 お腹の傷と違って、こちらは一見わからなかった。が、言われてみれば、二本の脚全体が小さな傷跡で埋め尽くされていたのだった。

 ランダムに刻まれた細く白い糸のような切り傷の痕が、皮膚を覆っている。

 彼女は……と言えば、そんな自らの脚を愛おしそうに撫でまわして監督に見せつけていた。私はゾッとして目を背けた。

 監督はしかめっ面で彼女に「代わりの人が来るまでここに待機してて」と命令すると、不機嫌そうに足を踏み鳴らして部屋を出ていった。

 それまで周囲にいたスタッフたちも、皆、監督に呼ばれて席を外してしまい、私と彼女だけが室内に取り残された。

 気まずさを感じた。……と、突然、彼女がクルッと私の方を振り向き、目をみひらいたと思ったら、大声を出した。

「あーっ!」

私は慄いた。

「な、何?」

「川奈さんは体に全然キズが無いんですねぇ。借金とかも無いんですかぁ?」

「えっ、借金? 無いけど……」

 私は口ごもった。借金? 傷跡と何の関係が? この人は頭がヘンなのだと思い、無防備な裸を彼女に晒していることが急に怖くなった。

 そこで、慌てて自分の服を身につけはじめたのだが。

「服、着ちゃうんですかぁ? 大丈夫ですよぉ。伝染らないから安心してください。でも借金は怖いですよぉ。虫に用心してくださいね」


 借金の次は、虫?

 わけがわからなくて気持ちが悪い。

 しかも、このとき私は、彼女が右手に小さな眉切りバサミを持っていることに気づいてしまった。おまけに彼女は、それで自分の左手の親指の爪の間を抉りはじめたではないか……。

「あーっ、これ? 気にしないでください。ただの虫ですから。ネイル付けてるから傷はわかりませんし。こんな私ですけど、仲良くしてもらえますかぁ?」


 コカインなどの薬物に中毒すると、蟻走感といって、虫が皮膚内を這う体感幻覚に悩まされることがあるという。そのため体を掻きむしったり、場合によっては自ら刃物などで皮膚を切り苛んだりするそうだ。

 咄嗟に、この女もその類だろうと思ったのだが。

 そのとき、部屋の真ん中に突っ立っている彼女白い足の甲に、赤茶色の点が散らばっていることに気がついた。点々が蠢いている。赤蟻のようだ。よく見たら、足首にも脛にも蟻が這っている。

 本当に虫がいる!

「虫は厭ですねぇ」と笑いかけてきた彼女に私は背を向け、廊下へ逃げ出した。

後ろから、箍の外れた哄笑が追い駆けてきた。


スタッフがいるところへ避難するまで、生きた心地がしなかった。

 あの赤蟻のような虫にとりつかれたら、私も自分の体を切り刻みたくなるのだろうか。

 お腹の逆さ十字も、もしかしたら自分で……?

いやいや、虫にとりつかれるだなんて、そんな馬鹿な。

 幸い、それから半時も経たずに迎えが来て彼女は帰され、やがて代わりの女優が来た。

 明るくて感じの好い人でホッとしたのも束の間、私は、彼女の頬にポツンとある赤い点が蠢いていることに気づいてしまった。

「そこに、虫が」

 私は恐る恐る彼女の頬を指さした。

「厭だ」


 彼女は手で頬を払った――その手首に数条のリストカットの痕が。


 それからしばらくの間、私は小さな虫に怯えながら過ごした。

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●川奈まり子 プロフィール

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作家。

『一〇八怪談 鬼姫』『実話奇譚 怨色』『少女奇譚』『少年奇譚』『でる場所』『一〇八怪談 夜叉』『実話奇譚 奈落』『実話奇譚 夜葬』『実話奇譚 呪情』『実話怪談 穢死』『迷家奇譚』『出没地帯』『赤い地獄』など、怪談の著書多数。

日本推理作家協会会員。


●声の出演


川奈まり子

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【川奈まり子 怪談連載・目次】

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