〜初出~『第一七夜 中古の自転車』(川奈まり子の実話系怪談コラム 2015年6月10日・ニュースサイトしらべぇ)
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近所の美容室で、五年ぐらい前に聞いた話だ。
話してくれたのは山田さんという美容師で、年齢は二五、六、独身だと言っていた。
当初は取材するつもりもなく、シャンプー台で頭皮をマッサージしてもらいながら、「息子に自転車を買ってやるとしたら、どんなものが良いだろうか」と、私の方から山田さんに相談したのだった。それというのも、彼がこの近くでお洒落な自転車に乗っているところを見かけたことがあったので、若い男の子の好みを訊くにはうってつけだと思ったのだ。
すると山田さんは「まず、中古で買うのはお勧めしません」と変にキッパリ断言した。
理由を訊くと、「話せば長くなる」と応える。そのため興味を惹かれて、打ち明けてくれるように促したという次第だ。以下が、その話になる。
山田さんは、およそ一年前の春に、中古の自転車を買った。
「前から通勤用に自転車が欲しいなぁと思ってたんですけど、ちゃんとしたのは結構高いし、でもデザインにはこだわりたいから、なかなか買えずにいたんですよ。そうしたら、すぐそこのリサイクルショップに良いのがあって……」
アルミフレームの国産クロスバイクで、ライトやスタンド、それにバックミラーまで付いて、五千円。
いつも雑誌やネットショップで自転車をチェックしていた山田さんは、同じものを新品で買えば五万円ぐらいすることを知っていた。
目立つ傷も無く、本来なら別個に買いそろえなければならない備品付きで、値段が十分の一というわけだ。
このとき彼は休憩時間で、あと一五分で美容室に戻らなければならなかった。
「こりゃあ運が好い、迷ってる場合じゃないと思って、大急ぎで買いました。その場で防犯登録が出来たから、手続きも済ませると、もう、戻らないといけない時刻で、だから焦って、あとで取りにくると言って……。そのとき一応、この美容室の名前も教えておいたら、夜の七時頃、そのリサイクルショップの人が自転車を持ってきてくれたんです。リサイクルショップの方が、うちより閉店時刻が早かったんですね」
山田さんは美容室の店長に断って、自転車を店の裏に置かせてもらった。そこには車一台分の駐車スペースがあり、いつも店長が使っていた。
「店長の車に傷をつけないように気をつけて、出口に近い隅っこに自転車を置きました。そのときになって初めて、カギが付いてないことに気づきました。チェーンを買わなくちゃいけなかった。でも買ったときには、慌ててたから思いつかなかったんですよ」
その駐車スペースは路地に面した露天で、柵もなかった。
「危ないかなぁ、でも、まさか盗られないだろうって……」
少し心配しつつ、スタンドを掛けて自転車をそこに停めると、仕事に戻った。
やがて閉店の時刻になり、山田さんが床掃除をしていると、閉店の札を出しに行った店長が変な顔をして戻ってきて、「裏に置いたんじゃなかったのか?」と彼に訊ねた。
「自転車がね、店の出入り口のすぐ横にあったんですって。びっくりしました。ええっ、じゃあ誰かが裏から移動させたんだって言って、外に出てみたけど、近くに怪しい人影があるわけじゃなし、何もわかりませんでした。なんか、僕は、早く乗れよって自転車に催促されてるみたいな感じがして、『僕に乗ってもらいたいんじゃないすか?』と店長に言いました」
もちろん本気でそう信じていたわけではない。半ば冗談だった。
山田さんの自宅は四谷の方にある。彼の美容室は表参道駅に近いので、地下鉄を利用することが多いという。東京メトロの半蔵門線と丸ノ内線を乗りついで行くわけだ。
「僕って思いつきで行動する癖があって、それでよく失敗するんですよ。そのときも、いざ帰る段になって、あっ、電車に乗るのに、自転車をどうしようって気がつく始末でした」
自転車を持ったまま電車に乗れないこともないが、その晩は雨も降っておらず、気候も良かった。
「寒くもなく暑くもなく、いい風が吹いていて、夜の一〇時頃でしたから、このあたりの道路はそろそろ交通量が減って道が空いてきます。それに、前にICカードを失くして歩いて帰ったことがあったので、道順もわかってました。だから、これは自転車に乗って帰れってことだろうと思っちゃったんです」
表参道駅付近から四谷方面に向かうルートは幾通りかあるが、最も単純なのは外苑西通りを使った行き方だろう。自転車なら一五分弱で四谷四丁目の交差点まで一直線だ。
実際には山田さんの家はその少し先なのだが、いずれにせよ、道に迷うはずがなかった。
ところが、走り始めてしばらくすると、周囲の景色が記憶していたのと違うことに山田さんは気がついた。
「初めはあんまり気にしてませんでした。店が入れ替わったんだろうとか、道路工事をやったんだろうとか、その程度に思って。でも、そのうち、一戸建ての住宅街みたいなところに差し掛かっちゃって、いくらなんでもこれはヘンだぞと……」
山田さんは路肩で停止して、スマホを取り出した。インターネットの地図アプリで現在地を確かめようと思ったのだ。
しかし、アプリを開くより先に、まずは時刻が目に入ってギョッとした。
午後一〇時半。出発してから三〇分近く経っているではないか……。
家に到着していても、おかしくない時刻だ。
さらに地図アプリを開くと、もっと驚くべきことがわかった。
「目を疑いましたよ! だって三鷹市の地図がいきなり出てきたんですよ! ああいうアプリって、現在地を表示しますよね? ってことは、僕は三鷹にいる……。どうして表参道から四谷に向けて走ってて、三鷹に来ちゃうんですか。絶対あり得ないけど、万が一、道を間違えたとしても、三鷹まで三〇分で来れるものなんですか? 無理ですよ! そんな馬鹿なって、パニック状態になりました」
どうしても信じ難く、何度もスマホを操作し直した。
だが、幾らやっても同じことで、三鷹市内の地図が表示されたという。
三鷹市深大寺のあたりだったそうだ。
「辺りは一戸建てばかりの住宅街で、まだ窓に明かりが点いてる家が多かったです。僕がそこに居るってことを除けば、なんにもおかしなところがない風景でした」
山田さんは、すっかり怖くなってしまった。
そして不意に尿意をもよおした。昔から恐怖を感じるとトイレが近くなる性質だった。そこで、トイレを借りるため、コンビニエンスストアを探すことにした。
スマホの地図アプリを信用するならば、そこからほんのわずかな距離のところに、コンビニエンスストアがあるはずだった。
はたして、コンビニエンスストアは画面に表示されていたとおりの場所に在った。
「トイレを借りたついでに、店員さんに、ここはどこか訊いてみました。そしたら、やっぱり三鷹の深大寺だって」
レシートに印刷された日付や時刻、住所にも異常な点は見られなかった。
「僕がこんな所に来てしまったということ以外には、普通の世界が続いている感じでした。僕だけが、おかしい。そう思ったら、暑くもないのに変な汗がダラダラ出てきました」
しかし、とにかく帰らなければならない。
「明日も仕事がありますし……普通にね。普通に仕事があるわけで、だから早く帰って寝なくちゃいけないって、そのとき思ったんです。とりあえず帰るしかないって……」
時刻はすでに一一時近かった。慣れない自転車漕ぎで体力を使い、精神的な消耗も激しく、疲れ切った気分だった。
自転車ごと電車に乗って帰る以外に選択肢はないと考えた。
そこで、コンビニエンスストアを出ると、もはや精度を疑う必要がなくなった地図アプリのナビゲーションを頼りに、最寄り駅を目指した。
「それなのに、また道に迷ったんです」
さきほどの住宅街に戻ってきてしまい、山田さんは驚いて再び自転車を停止した。
「黒っぽい屋根の、二階建ての家の前でした。見覚えがあって、そうそう、コンビニに行く前にここで止まって、スマホを見たんだよなぁと思って……。胃が引っ繰り返りそうになりました。でも、しょうがないから、尚も駅を目指して行きました。だけど、少ししたら、また同じ家の前に差し掛かって……」
築年数がそれなりにありそうだが手入れの良い、変わったところのない家だったという。
門扉は閉じており、カーポートに自家用車が二台あった。
山田さんはその家の前でペダルを漕ぐ足を止め、途方に暮れながらスマホでまた現在地を確認しようとした。
すると、どこかで犬が激しく鳴きはじめた。
「どうも、その家の飼い犬が吠えだしたようでした。小型犬の鳴き声で、かん高くて、キャンキャン、すごく煩いんです。それで、あ、ヤバイと思って、とりあえず、そこから離れようとしました。近所迷惑だし、家から人が出てきたら、不審者扱いされちゃいますからね」
しかし移動する前に、後ろの方からカツカツとハイヒールの足音が迫ってきた。
漕ぎだそうと思ったのだが、足音のピッチが速くなり、彼をめがけて駆け寄ってくるようなので迷いが生じた。
なんだろうと思ったところ、ハイヒールの主だと思われる女の声が。
「タカシ!」
自分の名前ではない。人違いだ、と、振り向こうとしたときには、女はすぐ後ろに迫っており、ガシッと肩を掴まれた。
反射的に体を捻ってそちらを向く。すると、まなじりが裂けるほど目を見開いた若い女の顔が目に飛び込んできた。
「あのときは、『えっ』ぐらいしか言えませんでした。えっ? えっ?……って馬鹿みたいに繰り返したら、その女の人が、ハッと我に返ったようすになって……」
「ごめんなさい」と彼に謝った。
あらためて見ると、山田さんよりも少し年上に思える、綺麗な女性だったとのこと。
彼女は、すぐに早口でこう述べた。
「私はこの家の者で、今、仕事から帰ってきたところですが、あなたが自転車に乗っている姿が、うちの弟によく似ていたので、弟かと思って、失礼なことをしてしまいました」
タカシというのは、彼女の弟の名前だったのだ。
「失礼ですが、その自転車は、弟が乗っていたものと同じ車種で、色も同じです。差し支えなければ、どこで手に入れたのか教えてくださいませんか?」
おかしなことを訊くなぁと思いつつも、山田さんは正直に答えた。
「リサイクルショップだと言ったら、店の名前まで詳しく知りたがったので、教えたんですよ。すると、スマホのメモ機能ってあるじゃないですか? あれを開いて店の名前を書いてるんです。だから、これは盗品とか、そんなんじゃないと思いますよって、その人に言ったんです。弟の自転車が盗られるかどうかして探してるのかもしれないと思ったから。そしたら、その人はまた僕に謝って、そんなふうに疑ってるわけじゃないと言って、それから、なぜここに来たのかって質問してきたんで……困りました」
本当のことを話せば、狂人扱いされてしまいそうだと思ったそうだ。
そこで、ボソボソと「道に迷って……」と呟くだけにとどめた。
「でもね、それだけで、その女の人は、何かすべてわかったみたいな顔をしたんですよ。それで、その自転車は、ほぼ間違いなく弟の物だから、お金は払うし家まで車で送るので、出来ればここに置いていってほしいって言ったんです」
山田さんは驚いて、「なんでそんなことわかるんですか?」と言い返した。
人が乗っているものを置いていけなどと、とんでもないこと言うものだ。
ましてや今日、買ったばかりだ。これには少し頭にきた。
しかも、さっきからずっと犬がキャンキャン吠えつづけていたので気が気でなく、女性を突き飛ばして逃げ去りたい衝動に駆られた。
もしも、傍の家から年輩の女性が出てくるタイミングが少しでも遅かったら、本当にそうしていたかもしれないという。
彼が行動を起こす前に、中年の女性が走り出てきたのである。
「おかあさん! タカシの自転車が……!」と、傍らの若い女性が叫んだ。
では、この人の母親なのか。そう理解する端から、なぜか彼女もまた、山田さんを見るなり血相を変えて、こう叫んだ。
「タカシ!」
「違いますよ!」と山田さんは叫び返した。
「僕、もう行きます!」
待って、と、二人の女性が同時に言って、彼の肩に取りすがった。
「どうか、その自転車をここに置いていってくださいませんか!」
「嫌ですよ! 離してください!」
「でも、それはうちの息子の自転車に違いないんです! 私たちには、わかるんです!」
「……同じ車種のクロスバイクに乗ってただけだと思いますよ? 自転車なんて、大量生産されてる工業製品じゃないですか? 確かに中古だけど、名前が書いてあるわけじゃないし、もしかしたらシリアルナンバーから元の持ち主を割り出す方法があるかもしれませんが、今、会ったばかりで、何を根拠にそんな……」
たった五千円でこんなにいい自転車が手に入ることは滅多にないと思うから、山田さんも必死になった。
また、この母娘の執拗さも何やら恐ろしい。
今度こそ、無理矢理、走って逃げるつもりになり、態勢を整えるために体重を掛けていた足を踏み変えた――その拍子に、バックミラーに顔が映った。
見知らぬ、少年の顔が。
目を疑って見直したが、やはり、そこに映っているのは自分ではなく、高校生ぐらいの男の子の顔だった。
――山田さんは、悲鳴をあげて自転車から飛び離れた。
それから、倒れた自転車を、「タカシ」の母親が悲しい表情で引き起こすのを、呆然と眺めたという。
「結局、その自転車は、彼女たちにあげることにしました。
仕方ないです。タカシくんの自転車なんだから。
ちょっと待っててと言われて、母親の方が家に走っていってお金を入れた封筒を持ってきて、それから娘さんの方がすぐに車を出してくれて、家まで送ると言うのを、さすがに申し訳ないんで遠慮して、三鷹駅まで送ってもらうことになったんですけど……。
そのとき、送ってもらいながら、自転車を買ってから今までに起きたことを、全部、打ち明けました。
馬鹿にされるかと思いましたが、彼女は運転しながら、静かに泣きだしたんですよね。
僕が心配したら、あなたには関係ないことですから、お気遣いなくって言われちゃいました。タカシくんがどうなったのか知りたかったんですけど、教えてもらえませんでした。
三鷹駅に着いて車を降りたら、なんだか夢を見てたみたいだって感じましたよ。
でも母親って人に貰った封筒を持ってるから、現実なわけです。
女の人の車が行っちゃってから、その場で封筒を開けてみたんです。そうしたら、五万円も入ってて、またびっくりしました。
電車も、四谷駅も、帰ってきた自分のうちも、普通で、いつもと何も変わらないんですよ?
でも五万円がある。代わりに、自転車は無い。
普通だったら今日買ったあれを漕いで、とっくに家に帰って、テレビを観てるか風呂に入ってるか、もしかしたらもう寝てるわけだから、これは全然、普通じゃないよなぁって……。
僕、口癖でよく『普通』って言っちゃうんですよね。いいじゃないですか? 普通。
普通がいちばんですよ。あんなふうに普通じゃなく道に迷うのとか、二度と御免です。
ああ、そうそう。その後、タカシくんのと同じ車種の自転車を新品で買ったんですよ。
乗り心地がいい自転車だったし、五万円って、新車を買った場合の代金ってことでくれたんだろうと思ったから。何千円か、足りませんでしたけどね」
帰りがけに、美容室の裏手の路地に行ってみた。
駐車スペースがあり、最近になって新しく取り付けたものらしい門扉に、自転車がワイヤー錠で留めつけられていた。
軽そうなフレームのクロスバイクで、バックミラーが付いている。
私は顔を近づけて、ミラーの中を覗き込んでみた。
作家。
『一〇八怪談 鬼姫』『実話奇譚 怨色』『少女奇譚』『少年奇譚』『でる場所』『一〇八怪談 夜叉』『実話奇譚 奈落』『実話奇譚 夜葬』『実話奇譚 呪情』『実話怪談 穢死』『迷家奇譚』『出没地帯』『赤い地獄』など、怪談の著書多数。
日本推理作家協会会員。
川奈まり子
さやさや花
夏目愛海
相樂真太郎