〜初出~『第四八夜 京都旅行・化野念仏寺~清滝トンネル』(川奈まり子の実話系怪談コラム 2016年10月26日・ニュースサイトしらべぇ)
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京都に一泊二日で行くと決まったのは、たしか二〇一六年の七月ぐらいのことで、その頃私が立ち上げたとある団体の代表者として龍谷大学の先生のお招きに預かったのだった。
一〇月某日に開かれる研究会の席上で講演してほしいとのご依頼だ。
団体の理事らは是非も無いと言い、お声がけしてくださった方の研究熱心なことやお人柄にも惚れ込んで、承諾した。
そして、せっかく一人で行くのだからと、龍谷大学が支給してくれるという宿泊費に自分のおこづかいを上乗せして、京町家なるものに泊まってみようと考えた。
京都特有の伝統的な町家を改装した旅館が京都市内にいくつもあると聞いており、旅の雑誌などで写真を見たこともあって、前々から興趣をそそられていたのだ。
苔や石灯篭が風情をそえる坪庭、長く細い廊下の先の奥座敷。間口が狭く、奥行がある構造のおかげで居室は往来の喧騒から守られ、穏やかな静けさに満ちている……に違いないと単純に憧れていたわけである。
実行を決意すると私はすっかり舞いあがり、インターネットで町家の宿を検索しては予約を試みた。秋の京都旅行は人気が高く、すぐに正攻法では無理だとわかり、外国人向けの京都旅行案内サイトで探してみたところ、とうとう、ある宿に予約を取ることが出来た。
まごうかたなき町家で、しかも赤い千本鳥居でおなじみの伏見稲荷の目と鼻の先という好い立地。客室は、二階屋の上下に一室ずつ。
よくぞ空いていてくださった、と私は小躍りした。
さらにその頃、京都在住の作家である花房観音先生が京都で有名な心霊スポットを案内してくださることになった。
龍谷大学の講演は夕方からで、到着日の昼はまるっと空いている。
その時間を活かして観光名所めぐりでもしようかしらと思っていたところへ、かねてから面識のある花房先生から嬉しいお誘いをいただいた。
怖いところへ連れていってくださるのは、怪談作家にとっては最高のもてなしであり、しかも案内人が、日頃より尊敬申し上げている花房先生……。
町家に、心霊スポットめぐりに、花房観音先生と来た。私は、そもそもの目的である講演のことを忘れそうになるほど、京都へ発つ日を楽しみに待ったのである。
旅の一日目は、昼に京都駅で花房先生と待ち合わせて昼食をとったのち、まずは化野念仏寺を訪れた。
ちなみに、今回のコースは、京都駅から山陰本線で嵯峨嵐山へ行き、そこからタクシーで化野念仏寺に行き、その後、徒歩で愛宕念仏寺、そして清滝トンネルへ行って、トンネルを抜けたらバスで京都駅に戻るというもの。
予約した伏見の宿には、夕方の四時頃にチェックインすると連絡を入れた。大学の講演は六時からで、宿はキャンパスからも近い奈良線の稲荷駅のすぐそばだから、無理のないスケジュールだ。
ここまですべて何事も滞りなく円滑だった。唯一、わずかに引っ掛かったのは、花房先生が、私が泊まる宿をご存じなかったことだ。
「伏見稲荷の前に町家さんなんて、あったかしら」と仰ったのだ。
花房先生は、優れた小説家でエッセイも非常にお上手だが、実はベテランの京都のバスガイドでもある。お若い頃から、観光に訪れる人々を府内狭しと案内しづつけてきたので、当然、京都の旅館やホテルにお詳しい。
「よさそうなところですよ」私は適当なことを言った。
やがて化野念仏寺に着いた。
細い坂道から、樹々の間に開いた階段を上っていく。段々のふもとに「あだしの念仏寺」という碑が立っていて、沿革を記した看板があった。
およそ千百年前、弘法大師が開創した五智山如来寺が元で、その後、法然上人の常念仏道場を経て、浄土真宗の華西山東漸院念仏寺となった。
化野の「化」とは、はかない、むなしいという意味で、この場所は、古来から風葬の地だったという。
風葬では、亡骸を野ざらしにして、自然に腐敗し、骨になるのを待つのである。
土葬以前の古い日本の習慣で、沖縄あたりでは戦前まで地域によってはこの習慣が残っていたようだ。雑多なものが剥がれ落ちたあとの骨を「骨神(ふにしん)」として崇める信仰もあったという。後世、土葬が一般的となり、化野では石仏を奉るようになった。
境内に入るとすぐに、苔生した地面にポツリポツリとあちこちが欠けた石の仏像のようなものが目についた。緑の沼から地蔵が頭や上半身を突き出している体である。どれも化石のように古そうで、完全な形をとどめているものはひとつもない。
やがて視界が開けると、無数とも見える石仏や石塔が立ち並ぶ、独特な景色が広がった。
これが有名な「西院の河原」か。
私は胸を躍らせた。いつかはこの光景を見てみたかった。写真で眺めたことしかなかった、「西院の河原」――賽の河原に模して安祀したのだという地蔵群は、しかし、一般客の写真撮影は禁止されていた。
「幽霊が写ってしまうからではないかと言いますねぇ」
花房先生がこう仰るので、ますます写真を撮りたくなったが、禁を破るのは憚られた。
ここのお地蔵さんは、一体一体が30センチほどと小さいため初めは気づきづらいが、よく見ると首が無いものが多く、それが何百体も集まってみっしりと地面を埋めているさまには何か空恐ろしいものがある。如何にも幽霊が写りそうな寒々とした情緒に溢れている。
……と、思っていたら、気のせいか胸を押されているような息苦しさを感じはじめ、花房先生にそれを伝えたところ、霊感のある人は、皆、ここへ来ると何かしら具合が悪くなるのだと怖いことを述べられた。
とはいえ、体調がとくに悪くなったというほどではなく、また、好奇心がはるかに勝り、境内に水子地蔵を祀っているところもあるというので、次はそちらに移動した。
しかし、そこも写真は撮影不許可という話だった。
せっかく来て一枚も写真を撮らないで帰るのももったいないような気がしていたら、水子地蔵群の手前に、写してもいいお地蔵さんがあった。
そこで早速スマホで撮ることにした。花房先生は私のすぐ横にいて、私が撮り終えるのを待ってくださった。
私は、二度、シャッターボタンをタップした。
ところが、撮れた写真はなぜか六枚。
「連写してないのに、どうして!」私は悲鳴をあげた。「花房先生にも聞こえましたよね?」
「ええ。ピコーンピコーンって、鳴った音は二回だけでした」
「なのに……なんでこんな……」
しかも、私はまったく同じ位置でシャッターを押したはずが、六枚の写真はなぜかどれも微妙に画角がずれていた。まるで、地蔵の周りを、左から右へ、少しずつ回り込みながら撮影したかのように撮れていたのである。
心霊写真の一種ということになろうか……。
その後、愛宕念仏寺で同寺の名物「千二百体羅漢」を撮った写真にも、あとから見たら、ぼんやりとした白い靄のようなものが写っていた。
しかし愛宕念仏寺はでは、化野念仏寺で感じた胸苦しさはまったく覚えず、かえって清涼な山の空気が新鮮で、境内にいる間中、心地良かった。
怪しい写真が撮れてしまった千二百体羅漢にしても、西院の河原の首なし地蔵と違い、多くは二頭身でゆるキャラ的な可愛らしさを備えたものであって、地衣類に覆われているので古く見えるが、実は平成三年に完成したというから、新しいものも多い。
そのせいか、眼鏡をかけていたり、カメラを構えていたり、酒を酌み交わしている対になった地蔵もありで、ポップでユーモラスなのだ。
そんな明るい(しかし心霊写真は撮れた)愛宕念仏寺を出て、いよいよ清滝トンネルへ。
なぜ「いよいよ」なのかというと、私は事前に清滝トンネルこと「清滝隧道」について、インターネットでリサーチして、非常に楽しみにしていたのだ。
花房先生から有名な心霊スポットだと聞いていたが、自分でリサーチしてみて、人口に膾炙した理由を知り、余計に期待を膨らませた仕儀だ。
何を期待したかというと、「出る」ことを、だ。ここは、とにかく「出る」らしい。
車でトンネル内を走行中に、白い服を来た女性がボンネットに落ちてくる。愛宕鉄道が通行していた時代の鉄道事故の死亡者の霊が出る。清滝峠は昔の京都の処刑場で処刑された人の霊がトンネル内にひしめいている……等々の噂があるという。
また、「このトンネルの入り口に着いたときに信号が青になっていたら、幽霊に招かれているので、すぐにトンネルに入ってはいけない。いったん信号が赤になるのを待ち、再度青になってから入るべし」という掟や、「トンネルの出口付近に真下を向いたミラーがあり、それを見ると自分の死ぬときの姿が映っている。もしも自分の姿が映らなかったら、間もなく死んでしまう」というジンクスといった、都市伝説のおまけもついている。
他にも色々あって、「清滝トンネル伝説」で本の一章ぐらいは書けそうなほど。
そんな清滝トンネルだが、実際に行ってみると、緑が豊かな山景色を背景とした素朴な造りのトンネルで、京阪バスが通っており、それなりに交通量もあった。
晴れた日の午後三時頃で、あたりは明るく、トンネルの外観は怖いというよりひなびて、どこか懐かしい。
小さな隧道だ。幅が狭く、車同士が擦れ違えないため、トンネルの出入り口に信号がある。
私たちが着いたときにも、手前の待機線のところで、信号を待っている車があった。
やがて青になり、車がトンネルに入った。続いて私たちも入る――さっきまで赤だったから幽霊に招かれていることにはならないのか、微妙なところだ。
「私は全然、霊感がないんです」と花房先生。「どうですか、川奈さんは?」
「私も今のところは、何も。でも、暗いですね、このトンネル。あと、音が凄く大きく響きますね。このゴーッて音はなんですか?」
「向こうから自動車が来るんでしょう」
たしかに、ゴーッという怪しい轟音が高まったかと思ったら、向こうからバスがやってきた。道幅が狭いので、トンネルの壁にくっつくようにしなければ、バスに引っ掛けられそうである。ぼんやりしていると幽霊よりも交通事故に遭いそうな危機感を覚えた。
入るときには気づかなかったが、トンネルは緩やかにカーブしていて、しばらく進むと、振り返っても入口が見えなくなった。
出口も見えず、山の内臓に封じ込められた気分である。
このあたりの山は南北朝時代の古戦場だったと花房さんが来る前に解説されていた。この辺もさぞかし死屍累々としていたことだろうと想像しながら歩いていると、かすかに人の声のようなものが何処からともなく聴こえてきた。
振り向いても誰もいない。前にも、花房先生がいらっしゃるばかりである。
また、やけに寒くなってきた。トンネル内の気温が低いのは当たり前だが、それにしても急激に冷えはじめた。なんだか厭な感じだ。
「向こうから変な人が歩いてきたら怖いですね」と、私は花房先生に話しかけてみた。
「やめてください」
花房先生が笑顔で振り向く。心強い限りだ。
独りぼっちだったら、絶対に出口を目指して走りだしている。
……と、いうのも、さっき聴こえた声が、その後も止まず、それどころか数を増やして、効果音でいうところの「ガヤ」のようになってきたのだ。
子どもや女性の声も混ざった、上演前のコンサートホールのような、興奮をひそめた「ガヤ」が盛んに聴こえる――としか思えない。
やがて、四方八方から声に取り囲まれてしまった。
「花房先生、ガヤってわかります?」
「ええ、わかりますけど」
「あれが、さっきからずっと聞こえるんですけど。子どもの声も混ざった、上演五分前みたいなガヤが、周りじゅうから……」
「えっ、そんなの聞こえませんよ! やだ怖い。川奈さん、鳥肌が立ちましたよ!」
「私も鳥肌ですよ。ほら、ガヤがしてますよぉ。何百人も、隣の人とお喋りしてる感じ……」
「やめてくださいよ!」
先生を怒らせてはいけないので、ガヤについては黙ったが、トンネルを抜けるまで適当なことを喋りつづけていた。会話していないと、ガヤに意識が集中して怖かったから。
それからもだいぶ歩いた。トンネルに入ってから二〇分ぐらいして、ようやく出口の明かりが見えてきた。
それと同時にガヤはピタリと止んだが、翌日の帰りがけ、夜、東京駅に着いたとき、小用で電話をかけた相手にこんなことを言われた。
「混線ですかね。何かさっきからガヤみたいなのがしてませんか。ゴーッと風のような音もするし、声が聴き取りづらいです」
また、後日、タレントの松原タニシさんにこのお話をしたところ、タニシさんは非常に驚かれて、「二〇分も歩くわけがありませんよ!」と仰った。
「そこがいちばん恐いところです。清滝トンネルは短くて、五分くらいで通れますよ。川奈さん、いったいどこを歩いてたんですか?」
――どこって、黄泉平坂だろうか。
このときから、花房先生は右肩が痛くなり、数日間、治らなかったそうである。
尚、トンネルの出口付近に、下を向けて設置されたミラーには、間抜けな表情をした私の顔がしっかりと映った。当分の間、死ぬことはないと思われる。
作家。
『一〇八怪談 鬼姫』『実話奇譚 怨色』『少女奇譚』『少年奇譚』『でる場所』『一〇八怪談 夜叉』『実話奇譚 奈落』『実話奇譚 夜葬』『実話奇譚 呪情』『実話怪談 穢死』『迷家奇譚』『出没地帯』『赤い地獄』など、怪談の著書多数。
日本推理作家協会会員。