第36回目を聞かれての質問について話をしました。 質問「阿彌陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿彌陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?我にまかせよ、必ず助けるという仰せについて疑いのない狀態、禦本願をそのまま受け入れている狀態を言うのでしょうか?」 話の中で出てきた禦文 「「聞其名號」といふは、本願の名號をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす禦のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如來の禦ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典註釈版P678)」 番組を聞いての質問は ブログ安心問答のコメント欄 https://anjinmondou.hatenablog.jp 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com twitter @anjinmondou までお願いします。
今回は、質問箱に頂いた內容について話をしました。 質問 「蓮如様は、口に念仏申しただけでは足すからぬと仰っていると思います。 一方で、阿彌陀様の禦本願には、お念仏をとなえる衆生を必ず助けるとお誓いになられています。 蓮如様のお言葉をどう解釈したらよろしいでしょうか? 今私は助かりたい一心で、禦本願を信じてお念仏をあげています。 今のままでは助からないのでしょうか?」 今回紹介した禦文章。 答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿彌陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。(略) 他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ體はいかなるこころぞといふに、この南無阿彌陀仏の六字の名號の體は、阿彌陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿彌陀仏の名號にあらはしましましたる禦すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿彌陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。 つぎに「阿彌陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿彌陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり(禦文章3帖目5通) 番組を聞いての質問・感想は以下へよろしくお願い致します。 番組URL:https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2022/05/12/040544 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com twitter:@anjinmondou
ブログ記事はこちら 安心問答ー浄土真宗の信心について- 話の中に出てくる禦文 いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿彌陀仏と名づけたてまつると。(顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P187) (82) 摂取してすてざれば 阿彌陀となづけたてまつる(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571) 質問箱はこちら
ブログ安心問答ー浄土真宗の信心についての音聲版として配信をしています。 今日の質問は質問箱のこちらからです。 話のなかで出てきた尊號真像銘文。 「「乃至十念」と申すは、如來のちかひの名號をとなへんことをすすめたまふに、遍數の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。」
質問の全文は、ブログ安心問答浄土真宗の信心についてをご覧ください。
#032「心が南無阿彌陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問) Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。 話の中に出てきたご文 (安心決定鈔より) 【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿彌陀仏、こころも南無阿彌陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一體の身も南無阿彌陀仏なり。こころは煩悩・隨煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、彌陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一體にしてこころも南無阿彌陀仏なり。彌陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一體にして南無阿彌陀仏なり。 われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一體にして南無阿彌陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は寶樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一體にして南無阿彌陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる禦かたちなるゆゑに、また機法一體にして南無阿彌陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿彌陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿彌陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿彌陀仏の體なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば、色心正法それになりかへることなり。 (尊號真像銘文より) 「帰命儘十方無礙光如來」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如來の勅命にしたがふこころなり。「儘十方無礙光如來」と申すはすなはち阿彌陀如來なり、この如來は光明なり。「儘十方」といふは、「儘」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を儘してことごとくみちたまへるなり。「無礙」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 「光如來」と申すは阿彌陀仏なり、この如來はすなはち不可思議光仏と申す。 この如來は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。 (禦一代聞書より) (237) 一 彌陀をたのめば南無阿彌陀仏の主に成るなり。南無阿彌陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[雲々]。また、當流の真実の寶といふは南無阿彌陀仏、これ一念の信心なりと[雲々]。 ブログ 安心問答 twitter @anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com
「真宗において 稱える心、聴聞しようとする心、 それらをもともと持たない私たちが、 阿彌陀仏のお働き、お育てにより念仏を稱えるという 內容を見聞きすることがありますが、 念仏しようとしたり、聴聞しようとする殊勝な心を 私達は元來、持っていないという內容はお経の中にありますでしょうか? いまいちお経のどこから出てきた內容なのかがわかりません。 教えていただければ幸いです。」 について話をしました。 安心問答 浄土真宗の信心について
#030 今回は質問箱に頂いた質問 「ただ今助けるという阿彌陀仏の本願を『許諾する』『受け入れる』『聞き受ける』等という表現がされますが、そのニュアンスがよくわかりません。 自分の心でただ単に『許諾した』と思い込むことでもないですよね?」 について話をしました。 質問箱はこちら 関連したブログ記事 「『南無阿彌陀仏を南無阿彌陀仏と聞く』というのは、南無阿彌陀仏の謂れ(善導大師・親鸞聖人・蓮如上人等の六字釈等)を思い出しながら、念仏を稱え、それを聞くことでしょうか?」(Peingで頂いた質問)
質問箱に頂いた質問 「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」 について話をしました。 話の中で出てきたご文 自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無礙光仏の不可思議の本願、広大智慧の名號を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 註釈版浄土真宗聖典P707) http://ur2.link/RYIS ブログ安心問答−浄土真宗の信心について− https://anjinmondou.hatenablog.jp/
質問箱に頂いた質問について話をしました。 「信後には安心がありますか?」 話の中で出てきたご文 彌陀の名號稱えつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃) http://ur0.work/znv3 ブログ 安心問答−浄土真宗の信心について