ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)#032「心が南無阿彌陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問)
31min2021 JUL 22
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#032「心が南無阿彌陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問) Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。 話の中に出てきたご文 (安心決定鈔より) 【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿彌陀仏、こころも南無阿彌陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一體の身も南無阿彌陀仏なり。こころは煩悩・隨煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、彌陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一體にしてこころも南無阿彌陀仏なり。彌陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一體にして南無阿彌陀仏なり。 われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一體にして南無阿彌陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は寶樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一體にして南無阿彌陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる禦かたちなるゆゑに、また機法一體にして南無阿彌陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿彌陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿彌陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿彌陀仏の體なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば、色心正法それになりかへることなり。 (尊號真像銘文より) 「帰命儘十方無礙光如來」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如來の勅命にしたがふこころなり。「儘十方無礙光如來」と申すはすなはち阿彌陀如來なり、この如來は光明なり。「儘十方」といふは、「儘」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を儘してことごとくみちたまへるなり。「無礙」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 「光如來」と申すは阿彌陀仏なり、この如來はすなはち不可思議光仏と申す。 この如來は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。 (禦一代聞書より) (237) 一 彌陀をたのめば南無阿彌陀仏の主に成るなり。南無阿彌陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[雲々]。また、當流の真実の寶といふは南無阿彌陀仏、これ一念の信心なりと[雲々]。 ブログ 安心問答 twitter @anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com